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柏葉健児 目次 背番号10

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まだ信じられない

 


昭和25 年卒業 古川 淳

 ようやく、秋風の到来、さわやかな日々が続くようになった。この時期になると薬学部に在籍していた昔の事などあれこれと思い出すこともある。学会の準備、教室旅行の湿泉巡り、そして野球部OB会などなど。そこには、いつもにこやかな表情でかつ、積極的に事に対処する渡辺先生(三明さんと呼んだほうが親しみやすい)の姿があった。おもえば三明さんとは長い付さ合いであった。その流れのなかで、何という運命のいたずらだろう、2月25日明け方の悲報は、まさに晴天の霹靂、信じたくない、知りたくない知らせであった。

 三明さんは、学生時代、野球部は勿論のことワンダーフォーゲル部にも属していた。おそらく彼がリーダーだったろう、薬学部の長崎一雲仙夜行軍はしんどいものだった。昭和40年代前半は、全国各地の大学で激しい学園紛争が巻き起こり、その頂点に立った事件が東大安田講堂の攻防戦だった。長崎大学も例にもれず火炎瓶が飛び交い、教養部などの封鎖が続いた。大学内にあっても学生間あるいは学生一教職員の間に相互不信の暗雲が漂い殺伐とした雰囲気であった。このような異常な状態を少しでも解消し、学部内の人間的な触れ合いを取り戻そうと始められたのが、薬学部合宿研修であった。
 この研修は昭和46年(1971年)より、平成2年(1990年)まで20年間、学部最大のイベントとして続けられた。そして研修に参加した多くの学生諸君には様々な思い出を提供したであろう。長い期間、中心になってこの研修を企画し、指導し、実行したのは三明さんであり、三明さんなしには合宿研修は語れない。
 一方、野球部同窓会の復活、秋のOB一現役戦、野球部同窓会報『柏葉健児』の発行など、すべてに中心的役割を果たし、精力的に事を運ぶ裁量は見事であった。
 とくに『枯葉健児』の発行にあたっては、薬専小野島時代の先輩にも声をかけ、老骨に鞭を打たせ、貴重な懐古の寄稿文が掲載された。これを読んだ多くの先輩方より感謝の気持ちが届けられたのは何より嬉しいことだった。
 三明さんは、学位を得てから、カナダ、ウォータルー大学のスニーカス教授の研究室に留学し、当時、新しい合成手法のリチエーション(リチウム化)反応を改良、応用して、多くの天然化合物の合成に成功して、学会から大いに注目されていた。常日頃、三明さんは、野球以上に研究の厳しさを教えて学生の研究、指導に対処していた。私にとっても大いに見習うべきことであった。留学先であったスニーカス教授は、三明さんの突然の訃報に驚き、その死去を心から悼み、佳子夫人宛て丁重な弔辞が寄せられた。
 私たち長薬同窓会員としては、1月6日、会長の市川先生を失い、14日には、元会長の伊藤好古先生、そして、2月25日には副会長の三明先生をたて続けに失うことになった。こんなことがあるだろうかと世の無常を強く思い知らされ、いまだ信じられない日々である。
                          平成12年9月 記

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