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渡辺三明先生を偲んで

 


平成9, 院平成11 年卒業 中田 一成

 世の中がミレニアムに沸く中、我々長薬野球部にとっては、悲しい出来事が駆け巡った。私が、市川正孝先生、渡辺三明先生が相次いで亡くなられるという訃報を聞くのは、長崎を遠く離れた東北の地でのことであった。
 私は今、仙台にいる。そこから二時間以上離れた気仙沼という地が、私の働き場所である。その往復の道中、時に両先生のお顔が思い出される。市川先生は、我々平成入学世代の部員にとっては、雲の上の大先輩。渡辺先生は、同じ校舎にいる身近な大先輩として、指導をいただき、大変に影響を受けたものである。その身近な大先輩、渡辺先生、以下呼びなれた三明先生(さんめい先生)と時に呼ばさせていただきながら、思い出を綴ろうと思う。

 三明先生との出会いは、私が長崎大学薬学部に入学し、同野球部に入部した時のことであるから、平成5年の春ということになる。当時、薬品合成教室におられた三明先生のもとに、恒例となっていた“新入部員の挨拶”と、先輩に連れられ、同期の仲間と行った時のことであった。三明先生から、学生生活について、野球部についてお話しがあった後、初めて言葉を交わした。独特の抑揚のある口調での、「中田君、君はなんで長崎へ来たんや?」の問いに対し、「はい。新幹線で参りました。」という私達前後の代の部員にとっては、あまりに有名なエピソードから始まる。(「岐阜県出身の君が、なんでこんな遠くへ?」というのが、三明先生の真意であったのだが。)
 しかし、まだこの時は、渡辺先生であった。それが、三明(さんめい)先生となるのは、その数ヶ月後のことになる。三交戦を目標に、練習に励んでいたある夏の日の朝、小林先輩が、「さんめい先生にあった。ノックしに来ると言うから、覚悟せなあかんぞ。」と言われた。「どの先生ですか?」との私の問いに対し、「知らんのか。野球部の先生やないか。」と。そこで、「ああ、なるほど、野球部の市川先生、渡辺先生、伊藤先生の、三名の先生のことか。三人の先生がノックに来るとは、それは確かに大変なことだぞ。」と、全く見当外れなことを考えていたのを思い出す。後にこの勘違いは、また笑い話となってしまうのだが。
 その先輩方も恐れた“さんめいノック”により、我々も四年の春の引退まで、鍛えられた。ショートの守備位置から眺める、外野への三明ノックは、“レフト!レフト!レフト!”と、右へ左へ、前へ後ろへ、と連続でガンガンと、鋭い打球が飛んで行く。私も中継に入りながら、右へ左へ、前へ後ろへ、青春の汗を流した。
 こういったノックの後には、恒例の三明評がある。忘れもせぬのが、三交戦を目前にした三年の夏、「お前達なら勝てるかもしれんぞ。」という言葉である。その予言通り、また、特訓に応え、見事に“夏の一勝”を挙げることとなる。平成11年の春には、九薬連優勝、その前後の年も準優勝と、好成績を収める我が長薬野球部だが、当時の一勝にはおよそ十勝分の価値があった。その為に、“勝利報告会”なるものを開いたものであったが、何より三明先生が目を細くして、首を揺らしながら喜んでくれたのを思い出す。その後、ご多忙となった先生が、“三明ノック”に現れる機会が減り、我々より若い世代には、それは、語り継がれるものとなっていった。そんな中、我々は貴重な時を過ごせたものと、時代に感謝している。
 






 三明先生はまた、人として大切なものを、我々に教えてくれた人でもあった。すなわち、我々は、野球部を愛することから、人を思いやることを学ぶ。このことは、いついかなる時も役立つものと、確信している。そういった先生であったから、進路についても親身になって相談に乗ってくれていた。三明先生にお世話になった者は、野球部員に限らない。私へもまた、「院卒のMRというのも珍しい。いつものように、思いっきりやってみたらええんや。」と。
 その言葉とともに、私は、長崎を送り出され、武田薬品に入社する。大阪での研修の後、仙台に配属となった。三明先生の御子息が東北大学にいらっしゃったこと、また、御子息の奥様の実家が仙台の為、時々訪れることを聞いた。「そこで立ち寄るのが牛タンの〜助、何という店だったかなあ?」と言われていた。「では、次回、先生が来るまでに、一番の店を探しておきます。」と、仙台での再会を約束していたのだが。

 今こうして、“先生を偲ぶ”を綴っていると、次から次へと、思い出される事は尽きない。長薬野球部の源泉たる市川正孝先生、またその流れを継承され、我々平成世代へと、さらに託された渡辺三明先生。その両先生のご他界は、あまりに大きい。しかし、ここで先生から受け継いだものをもって考えると、我々は、やはり何時までも悲しんでいてはならない。我々が、両先生から得たものをもって、この世界を、自分の人生を、元気に、幸せに暮らすことが、何よりの供養、両先生が喜んでもらえるものと、思えてならない。

 三明先生の私への最初の言葉、「中田君、君はなんで長崎へ来たんや?」の問いに、今ならこう答えたい。「はい、長薬野球部に入る為。そこで、市川先生、三明先生はじめ、素晴らしい先輩、仲間、後輩達に出会い、そこで得たものをもって、素晴らしい人生を過ごす為に参りました。」と。

市川正孝先生、渡辺三明先生、有り難うございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

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